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2018年07月31日

北朝鮮高官は何故自動車事故で死亡するのかと東洋経済オンライン。

* 北朝鮮高官は、なぜ次々交通事故で死ぬのか | 北朝鮮ニュース | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
北朝鮮の歴史で目を引くのは、多くの高官が交通事故で死んでいることだ。偶然で片付けるにはあまりにも不可解な点が多く、暗殺ではないかとの憶測が飛び交ってきた。これまでに、どのような北朝鮮エリートが交通事故死を遂げてきたのか。そのプロフィールをまとめたのが本稿だ。
南日は粛清を生き延びたが…
建国初期の北朝鮮高官で最も興味深い人物が南日(ナム・イル)だ。南はロシアの極東地域でヤコブ・ペトロビッチ・ナムとして生まれた。スターリン時代のソ連では教師をしていたが、1946年に妻と娘を残してソ連支配下の朝鮮半島北部へと移住、教育行政に従事する。
長年、教育に携わってきた南だったが、1950年に朝鮮戦争が勃発した後は、驚くべきことに人民軍総参謀長に任命される。姜健(カン・ゴン)将軍が戦死したことに伴う措置だった。1953年には人民軍大将(当時は、星3つの階級だった)となり、北朝鮮・中国側の主席代表として休戦会談で国連軍との交渉に当たった。
休戦協定締結後は、外相に就任。同郷のソ連系北朝鮮人、朴正愛(パク・チョンエ、民主女性同盟委員長)と協力して、最高指導者・金日成がソ連派の策謀によって失脚させられるのを防いだ。こうした功績を買われた南は1957年には副首相の1人に引き上げられている。
金日成に対する1956年のクーデター未遂(「8月宗派事件」)以降、ソ連派のほとんどが粛清されることになるが、方学世(パン・ハクセ、北朝鮮秘密警察の創設者)と並んで、こうした粛清を生き延びた数少ないソ連系北朝鮮人エリートの1人が南だった。
だが、1976年3月7日、南が交通事故死したと発表される。南の乗った車がトラックと衝突したというのだ。これは事故ではない、との憶測が飛び交った。金日成の息子・正日の仕業ではないかと見る向きもあった。後に最高指導者になる金正日は当時、朝鮮労働党の要職にあったとはいえ、南の殺害を表立って命じられるほどの権力はまだ手にしていなかった。金日成が抹殺を命じたとの見方もあった。
当時、ソ連に住んでいた南の息子は北朝鮮に行き、調査を行おうとするが、朴正愛からソ連に戻れ、そして事件にかかわるのはやめろ、と命じられる。
北朝鮮で誰かが正式に粛清されたかどうかを確かめる最善の方法は、歴史的な写真や映像がどう扱われているかをチェックすることだ。
金枓奉(キム・ドゥボン、最高人民会議常任委員長)や、朴正愛の姿が写真から消される一方で、南については1953年に朝鮮戦争の休戦協定に署名する写真が現在でも広く使われている。どうやら、南の存在は歴史から葬り去られたわけではないようだ。南が休戦協定に署名する写真はカラー化され、朝鮮労働党の機関紙労働新聞にも繰り返し掲載されてきた。
韓国との窓口だった金容淳
金容淳(キム・ヨンスン)は、1934年に平康(ピョンガン)郡で生まれた。20歳で金日成総合大学の国際関係学科を卒業し、1980年に朝鮮労働党の韓国担当書記となり、以後、数十年間にわたって、この地位を維持した。
1998年に金剛(クムガン)山観光開発で韓国からの協力を取り付けたのは金容淳だ。2000年の南北首脳会談における共同宣言署名の場にも姿を見せている。金容淳は北朝鮮エリートの中でも重要人物であり、韓国に脱北する直前の黄長Y(ファン・ジャンヨプ、元朝鮮労働党書記)とも会合を持っていたとされる。
そして、2003年10月26日、金容淳は交通事故で死亡する。
李哲奉(リ・チョルボン)の経歴は少し変わっている。1980年代初頭以降、警察署長、都市経営相、鉄道省政治局長、江原道(カンウォンド)の党責任秘書を歴任してきた。しかし、2009年12月25日に交通事故死し、そのキャリアは唐突に断たれることになる。
1930年生まれの李済剛(リ・ジェガン)は、1973年に朝鮮労働党中央委員会組織指導部に配属され、2001年7月に同部の第1副部長(組織担当)になった。部長職は空席だったため(金正日が事実上の部長だったとされる)、李済剛はかなりの影響力を手にすることになる。北朝鮮の最高幹部の1人になったのだ。
李済剛は現最高指導者の金正恩(キム・ジョンウン)が権力を継承する過程で要となる役割を果たしたと見られている。2009年1月8日に「若き将軍」が次の最高指導者になるとの知らせを金正日から直接、聞かされた人物だったからだ。
しかし、李済剛は金正恩が最高指導者の地位を継承する前に、交通事故でこの世を去る。2010年6月2日のことだった。金正恩の叔父で、李済剛の強力な政敵、張成沢(チャン・ソンテク)の命令で暗殺されたと考えられている。
最高幹部3人の訪韓にクーデター説が浮上
金容淳の後継者として、対韓国政策の最高職位である党統一戦線部長にまで上り詰めたのが金養建(キム・ヤンゴン)だ。しかし結局は、前任の金容淳と同じ運命をたどることになる。
金養建が朝鮮労働党で対韓国政策にかかわっていた時期は、韓国の対北朝鮮融和策「太陽政策」が2000年代半ばに絶頂を迎え、その後、韓国政権の保守回帰によって崩壊していった時代に当たる。金養建は2009年に韓国の元大統領、金大中(キム・デジュン)の葬儀に参列するためにソウルを訪れているが、金養建と会った韓国人には温厚な紳士であるとの印象を与えた。
金養建は2014年10月、事実上のナンバー2だった国防委員会副委員長の黄炳瑞(ファン・ビョンソ)、党書記で国家体育指導委員会委員長だった崔竜海(チョ・リョンヘ)とともに韓国を訪れ、仁川(インチョン)で開催されたアジア競技大会の閉会式に出席した。北朝鮮の最高幹部3人による訪韓は極めて異例であり、さまざまな憶測が駆け巡った。
このとき金正恩は体調を崩しており、公の場には1カ月ほど姿を見せていなかった。そうした状況で最高幹部3人がそろって韓国を電撃訪問したため、北朝鮮でクーデターが成功したことを韓国側に知らせるのが訪韓の目的で、仁川では南北統一協定が締結される予定になっているのではないか、とするクーデター説まで浮上した。
だが、結局は何も起こらなかった。少なくとも表向きは、単に訪韓することだけが目的だったかのように見えるほど、何事もなかった。
それから約1年後、金養建は死んだ。前任の金容淳と同じく、公式には交通事故死したことになっている。金養建の国葬を取り仕切り、遺体に最後の別れを告げたのは金正恩だった。また、金正恩は2016年に行われた第7回朝鮮労働党大会の演説でも、1980年の第6回大会以降に死去した重要人物の1人に金養建の名前を挙げた。
最高指導者なら公然と処刑するはず
このような幹部の事故死のうちのいくつかは、純然たる事故だった可能性もある。北朝鮮の道路の状態は劣悪で、プロの運転手であっても間違いは起こりうる。実際、今年4月にはバスの事故で中国人観光客32人が亡くなっている。
北朝鮮高官の交通事故が暗殺だったとしても、最高指導者が仕組んだ可能性は極めて低い。絶対権力を持つ金一族であれば、いつ何時でも法廷で死刑判決を下させ、大っぴらに処刑することができる。処刑するまでもない場合には、降格、国外追放、収監など、さまざまな手法を使って、いかようにでも粛清を加えることが可能だ。
つまり、交通事故死を装った謀殺は、最高権力者以外のエリートの間で起きている権力闘争の結果と考えるのが自然だ。
高官の事故死は北朝鮮政治の暗黒面を映し出すものであり、真相が明らかになることは決してないだろう。暗殺が含まれているのは間違いないが、その指令が文書として残されているとは考えにくい。暗殺にかかわった人物の中から事実を暴露しようとする人間が出てこないかぎり、秘密は永遠に保たれる。
答えは簡単で一般市民は車を持てないからで在る。
其の上で、金一族に秘密裏に工作されて処刑されるからなのだ。
事故に見せ掛けた殺人で在るのは云う迄も無い。
他の要因が在るとすれば、運転者の技能が非常に出鱈目で危険な運転の結果、事故を起こす位だろう。
posted by 天野☆翔 at 05:03 | Comment(0) | International | 更新情報をチェックする
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